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日暮里大火(にっぽりたいか、日暮里の大火)は、1963年(昭和38年)4月2日に東京都荒川区日暮里町(現・荒川区東日暮里)にて起きた火災〔「日暮里大火」の名称は総務省消防庁の災害伝承情報データベース(外部リンク参照)などによる。『東京の消防百年の歩み』では「日暮里の大火」。〕。死者は出なかったが、市街地の5000平方メートル以上を焼失するという大規模な火災であった。 == 経過 == * 火災の発生した1963年(昭和38年)4月2日の天候は快晴、正午に東京消防庁庁舎屋上で最大瞬間風速21m/sを記録するなど風が強く〔気象庁の観測によれば午後2時の時点で快晴、北の風10.5m/s、湿度は17パーセントであった。 -『東京の消防百年の歩み』P.549〕、午前10時45分には都内全域を対象としてこの年7回目の火災警報が発令されていた。 * 午後2時56分頃、荒川区日暮里町2丁目274番地にある寝具製造会社の作業場より出火。出火の原因は寝具工場の工員がシンナー〔危険物第4類・第1石油類に分類されるストロングPという接着剤が入っていた。 -『東京の消防百年の歩み』P.549〕の入ったバケツを水の入ったバケツだと勘違いして、タバコに火を付けた後のまだ燃えているマッチ棒を投げ捨てたところ、爆発炎上したというものであった。 * 午後2時59分頃、近隣の工場で火災報知機が押され、119番へ通報が行なわれた。しかし、消防隊の第一陣(日暮里小隊)が到着した時には、強風にあおられた炎はすでに作業場の東側へ延焼していた。 * 午後3時15分頃、日暮里町2丁目204番地の倉庫に飛び火。同20分頃には火元から道路を挟んだ南、東部ラバー株式会社にも飛び火した。204番地の倉庫にはビニール・ポリエチレンなど約20トンが、東部ラバーにはタイヤ・ゴムなど約1000トンの特殊可燃物が集積されていた。このため延焼により大規模な黒煙が発生し東京湾上空にまで到達、遠くの上野公園や御茶ノ水からでも火事で立ち昇る煙がよく見えたという。 * 火勢の拡大に対して東京消防庁は応援隊を増強し、合わせて1,091名の消防職員・消防団員が動員され、消防車83台が出動して消火にあたった。また警視庁はパトカーや白バイを51台現地へ派遣し、近隣道路の交通整理や、被災者の避難誘導にあたった。 * 警察や消防がまだ類焼していない近隣住宅に対して「自宅の屋根や壁に水を撒くように」と指示したところ数百軒の家で一斉に水道の蛇口を全開にして水を出そうとしたため「普段から水圧が低く夕食時など水の出が悪いが、この時は全く水が出なかった」などの問題も発生した。これはこの日暮里地区が金町浄水場からの配水管の末端に位置する場所で普段からあまり水の利が良くなかった事に起因する。 * 消防は近くにある荒川区立第三日暮里小学校のプール(火災発生時には約250トンの水があった)の水を消火に使うなどしたが、プールの水は1時間少しで使い終わってしまい消防用の水の確保に困難を極めた。その後は1km以上離れた谷中出張所の消火センターからポンプ車3台を数百m間隔で並べて火災現場まで消火用水を送水して対応した。 * 炎は7時間にわたって燃え続け、鎮火したのは午後9時58分であった。消防隊の現場引き上げは、翌4月3日の午前5時過ぎとなっている。しかし新聞記事などによれば翌日の昼間になっても所々で煙が立ち昇り、地元の住人がバケツで水をかけて消火していたとある。 * 被災後の一帯では約5,000トン(トラック約1,300台分)にも及ぶ焼けクズが発生し、その処理に困難を極めた。この焼けクズの回収などには4月4日より数日間にわたり自衛隊700名が派遣された。またその処理費用には2億4千万円(当時の価格)がかかると試算された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日暮里大火 (1963年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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